降り出す前に、匂いが先に来る
雨の匂いは、降り出すより先に来る。視覚より鼻のほうが天気を当てている、という話だ。6 月の初め、まだ一滴も落ちていないのに雨の匂いがする夕方がある。空はまだ明るくて、傘を持つほどでもない。それなのに、ベランダに出た瞬間「ああ、降るな」と分かる。
今年もその夕方が来た。火曜の 18 時すぎ、洗濯物を取り込もうと外に出たら、土とアスファルトの混じった匂いが立っていた。30 分後、本当に降り出した。私の鼻は気象庁より 30 分だけ早い。威張れる精度ではないが、当たると少し嬉しい。
あの匂いには名前がある
雨の匂いには「ペトリコール」という名前がついている。1964 年に Nature に載った論文で、オーストラリアの研究者 Bear と Thomas が名付けた言葉だ。ギリシャ語の石(petra)と、神々の血(ichor)を組み合わせている。
匂いの正体のひとつは「ゲオスミン」という物質で、土の中の放線菌(actinomycetes、土壌微生物の一種)が作る。乾いた地面に雨が当たると、地表で細かい泡が弾けて、溜まっていた匂い分子が空気に舞い上がる。つまり私が嗅いでいるのは雨そのものではなく、雨に叩かれた地面の匂いだ。降り出す前から匂うのは、湿度が先に上がって地面が湿り始めるからだろう。
余談だが、人間はゲオスミンにかなり敏感で、1 兆分の 5 ほどの濃度でも気づくらしい。サメが血を嗅ぎ分けるより鋭いと言われると、急に自分の鼻を見直したくなる。普段はコーヒーの種類すら当てられないのに。
体は、暦より先に季節を知っている
梅雨入りの宣言より、体のほうが早い。湿度が 70% を超えるあたりから、肌がわずかに重くなって、髪がいうことを聞かなくなる。気象台の発表は後追いで、私の前髪はとっくに知っている。
この「先に気づく感じ」が、季節の変わり目で一番おもしろい。夏の入口を麦茶の支度で測った話を前に書いたが、雨は飲み物より静かに、匂いで知らせてくる。窓を開ける時間が少しずつ伸びていくのと同じで、誰に言うでもなく体が反応している。暦の上の日付ではなく、身体の側に季節の目盛りがある。
降る前の数日が、いちばん好きだ
正直なところ、私は梅雨そのものより、梅雨入り前のこの数日が好きだ。空気がふくらんで、世界が少し湿って、まだ降らない。緊張の手前の、深呼吸みたいな時間がそこにある。
降ってしまえば、ただの雨だ。洗濯物は乾かないし、靴は濡れるし、自転車にも乗れない。文句は山ほどある。それでも、降る前のあの匂いだけは、毎年ちゃんと胸の奥を撫でていく。便利でも役に立つわけでもないのに、季節が変わることを鼻が静かに教えてくれる。それで十分だと、私は思っている。
よくある質問
- なぜ雨は降る前から匂うのですか?
- 降り出す前に湿度が上がり、地面が先に湿り始めるためです。土に溜まっていた匂い分子が空気中に立ちやすくなり、本格的に降る前から鼻が察知します。
- ペトリコールとは何ですか?
- 雨が乾いた地面に当たったときに立つ匂いの名前です。1964 年に Nature 誌で Bear と Thomas が名付けました。ギリシャ語の石(petra)と神々の血(ichor)を組み合わせた造語です。
- 雨の匂いの正体は何の物質ですか?
- 主な正体はゲオスミンという物質です。土壌中の放線菌が作り出し、雨粒が地面で弾ける際に空気へ舞い上がります。人間はごく低い濃度でもこの匂いを感じ取れます。