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短冊の前で、ペンが止まる
七夕の夜、短冊を一枚もらった。願いを書くだけの、たった一行の紙だ。ところが、ペンを持った手がそこで止まる。自分の望みを一文にするのは、他人の要件を書くよりずっと難しい、というのがこの夜に気づいたことだった。
短冊は縦に細長い。書ける文字数は、せいぜい十数字だろう。文字数の制約なら、仕事でいつも扱っている。SEO のタイトルは全角三十字前後、コミットメッセージの一行目は五十字まで。制約の中で言葉を削るのは、むしろ得意なはずだった。
なのに、笹の葉を前にすると、最初の一文字が出てこない。何を書きたいのか、自分でも分かっていないからだ。
人の望みは書けるのに、自分の望みは書けない
不思議なもので、他人の望みなら私はすらすら書ける。仕事の半分は、それを言葉にする作業でできている。
顧客が本当に欲しいものは何か。チームが次の四半期で目指すべきものは何か。そういう「人の願い」なら、要件定義という名前をつけて、箇条書きにして、優先順位までつけられる。代弁は、どちらかといえば得意だ。
けれど、主語が自分になった瞬間、手が止まる。「私は何が欲しいのか」という問いは、要件定義のテンプレートに収まってくれない。他人の願いは外から観察できるが、自分の願いは、観察する視点そのものが自分の内側にあって、うまく外へ取り出せない。
願いは、仕様書に少し似ている
短冊の一行は、仕様書の一行によく似ている。そう気づいて、少しおかしくなった。曖昧なまま書くと、たぶん叶わないのだ。
「幸せになりたい」と書くのは、「使いやすくしてほしい」という要望と同じで、受け入れ基準がない。何をもって叶ったとするのか、あとから判定できない。エンジニアの癖で、つい「その願い、テストが書けないな」と思ってしまう。
そもそも短冊に願いを書く風習は、江戸時代に手習いや技芸の上達を願って広まったものらしい(七夕 — Wikipedia)。もともと「もっと上達したい」という、かなり具体的で仕様書的な願いから始まっているわけだ。昔の人のほうが、受け入れ基準のはっきりした願いを書いていたのかもしれない。
具体的にするほど、願いが縮む気がする
願いを具体的にするほど、その願いが本来もっていた広がりが縮んでいく。ここがいちばん厄介な部分だ。
「健康でいたい」は広すぎて、手触りがない。でも「毎朝五時に起きて走る」まで絞ると、それはもう願いではなく、ただのタスクだ。数値目標は仕事だけで十分で、七夕の夜まで KPI を短冊に書きたくはない。願いとタスクの境目は思っているより曖昧で、書いた瞬間にどちらかへ倒れてしまう。
子供の頃は、こんなことで悩まなかった。「ゲームがほしい」と三秒で書けた。ほしいものが、外にはっきりあったからだ。大人になって三分固まるのは、ほしいものが自分の内側へ移動して、輪郭を失ったからかもしれない。夜の田んぼ沿いで季節の変わり目にふと気づく感覚と、これは少し似ている。前に夜のカエルの声で季節を知る話を書いたときにも、似た手触りを感じた。
それでも一行、書いて笹に結ぶ
結局、書けないなりに一行だけ書いて、笹に結んだ。完璧な願いを待っていたら、七夕は毎年そのまま素通りしてしまう。
書いてみて分かったのは、言葉にした瞬間に、願いはほんの少しだけ輪郭を持つということだ。書く前は霧のようだったものが、下手な一文になっただけで、少し触れる形になる。叶うかどうかより先に、「自分はこれを願っていたのか」と、書いた自分に教えてもらう感覚がある。
以前、コードと詩が同じテーブルにつく場所について書いたとき、文章は書き手の輪郭を彫る作業だと書いた。短冊も、たぶん同じだった。たった一行でも、書けば少しだけ自分が見える。来年の七夕は、もう少し早くペンが動くといい。そう願いながら、今年の分は結んで帰った。
よくある質問
- なぜ自分の願いは言葉にしにくいのか?
- 他人の望みは外から観察して要件定義のように書けるが、自分の願いは観察する視点そのものが内側にあるため、うまく外へ取り出せないからだ。書いてみて初めて輪郭が見えることも多い。
- 願いは具体的に書くべきか、抽象的に書くべきか?
- 具体的すぎると願いがただのタスクや数値目標に縮み、抽象的すぎると受け入れ基準がなく叶ったか判定できない。両者のちょうどいい塩梅を探すこと自体が難しく、仕様書を書く難しさとよく似ている。
- 短冊に願いを書く風習はいつから始まったのか?
- 江戸時代に、手習いや技芸の上達を願う風習として広まったとされる。もともとは「上達したい」という具体的で仕様書的な願いから始まっている。